Statements of Thomas Rabe

日本語訳 – Japanese Translation
ドイツ語原文 – Original German Text
英語訳 – English Translation
中国語訳 – Chinese Translation

日本語訳 : Japanese Translation

「ジョン・ラーベ ~南京のシンドラー」2014年日本初公開に向けて

トーマス&エリザベータ・ラーベからの民族間相互理解への思い

 

ドイツの歴史は、中国と日本のそれと数百年に及び密接な関係にあります。大学教授・産婦人科医であり歴史学者でない私には、この歴史について多くを語る資格がありません。しかし、ジョン・ラーベの孫としてではなく、一人のドイツ市民として国と国の歴史的な関係について意見を求められたならば、私たちの国、そして何より私たちドイツ人に大きな影を落とした1933年から1945年までの出来事を追想せねばなりません。私は1951年、戦後ちょうど6年後にドイツで生まれ、戦争の恐ろしさは直接体験せずに伝聞として知りました。私が4歳の時には、父が医員として働いていたドイツ西部のカイザースラウテルンという町に家族とともに住んでいましたが、この町も戦争で多数の家が空爆によって破壊されていました。まだ残る爆撃の跡を見て、子どもながらにこのような悲劇がいずれまた繰り返されてしまうのではないか、という恐怖感を抱いたことを覚えています。実際、私が11歳の頃に米ソ関係がキューバ危機にて一触即発の緊張関係に陥りました。私にとって、戦争とは常に未来への恐怖感に繋がっていました。死を中心とした恐怖、これは私の家族もスターリングラードにて一兵士として苦しみました。

ハイデルベルグ大学産科婦人科病院で医師として働く中で、私は常に国際学術交流のために尽力してきました。ハイデルベルグで避妊法に関する国際会議を多数主催する過程で、私は多くのイスラエル人の友人を得て、彼らの国を訪れました。新たな友人とその家族に非常に歓迎され厚くもてなしていただいたことに私は感激しました。私たちはどんなことについても話し合うことができました。そして、ドイツの歴史について問題にする人はありませんでした。私が祖父ジョン・ラーベの中国での生活と南京での出来事について探求するようになったのは、かつての友人で、その後在中国ドイツ大使でもあったエルヴィン・ヴィッケルト博士が1997年に祖父の日記を出版してからのことです。1937-1938年の南京について、そしてそこにおける祖父の生き様についてより良く知るために、エルヴィン・ヴィッケルト博士の指導のもと、私は中国学及び日本学の研究者や多数の証言者と面会し、『ジョン・ラーベと中国その時代』という400頁を超える著作を書き上げました。祖父は私が生まれる1年前の1950年1月5日に他界してしまったため、私は直接祖父を知りません。そこで、多くの目撃証言や歴史学者の話を聞きながら、私は少しずつ祖父の人物像を自らの中に描いて行きました。その中でも最も貴重だったのが、祖父が自らの家(1家族用の一軒家)と庭(1000平方メートル程度)に匿った650人の避難民の生き残り達の証言でした。この「困っている友を見捨てない」強い意志がこそが私が祖父に最も尊敬するところです。9人がトイレに、20人が風呂場に、他の者は藁敷の上で凍てつく極寒をしのいで夜を明かしました。その中には100人あまりの子どももいました。

フランス人のカトリック教会ジャッキーノ神父が1937年に制定した上海安全区をモデルに、南京でも中立区を制定し、日本軍の攻略から民間人を守りました。私の祖父はその安全区を作り守る安全区国際委員会の委員長に任命され、南京城壁内4キロ平方キロメートルの区画で20万人の市民を匿いました。国際委員会は彼らの安全を見守り、攻撃を報告したり、食料を確保したりしました。

多くの歴史学者達との議論の中で、私はドイツ人として、歴史に向き合うことの大切さに気づかされました。「第三帝国世代」のその殆どはこの世を去りましたが、過去は依然として残されています。戦後、ドイツは自らの人民が起こした悲劇を理解し、再生するために努力を尽くしました。結果、私たちのイスラエルの友人たちは、ドイツ戦後世代からの謝罪を受け入れてくれました。両国の市民がこれから和平を保ち共に生きていくために和解したのです。歴史の歯車は巻き戻せませんが、ドイツは幾度もの相互交流を通じて、フランスやポーランド、ロシアといった隣国への謝罪と不正への反省を明らかにしてきました。

過去に向き合うためには、過去に何が起きたのかを学ばなければなりません。さらに過去に関する知識を通じて過去をなかったことにすることが避けられるならば、その知識はかつての「敵」との理解を容易にしてくれるのです。そして、それはかつての敵を未来の友にするための一歩となるのです。歴史のいたる場面で幾度となく繰り返されて来た戦争による多数の死を無駄にしてはいけません。争いを解決し、お互いに語り、耳を傾け、「他者」を尊重する礎、すなわち、人間としての尊厳の一部としなければなりません。

私の祖父に関する映画「ジョン・ラーベ 南京のシンドラー」が撮影され世界中で公開されると知った時、私たちの家族はこれが日中関係の新たな火種にならないか、民族相互理解の妨げにならないか、と大変に心配しました。映画が中国公開される際には私と妻も北京・南京・上海で公開に立ち会いましたが、その度に何度も何度も、「過去に触れないでいても過去をなかったことにはできない。だからこそ、この映画や日中の歴史が、これからの新しい日中関係を切り開いていくきっかけとなって欲しいと繰り返し強調しました。一人の個人として、一つだけ願いが叶うとするなら何を願うか、と何度か質問されました。民族間相互理解の一助として、私たちは南京市と広島市の姉妹市提携を望みます。私たちは双方の市長にその旨を伝えましたが、双方から、もし可能だとしても、それは時間のかかる、少しずつお互いが成長し歩み寄る必要のある話だと言われました。これは拒否ではありません。希望はまだあります。

日本で「ジョン・ラーベ 南京のシンドラー」が公開されます際にお願いがあります。この映画に描写された歴史的背景やいくつかの暴虐は私の祖父が日記に記載した状況を忠実に反映しています。一方で、監督が映画として演出・芸術的観点からいくつか脚色をしている点もあることはご留意くだきたいということです。(例えば、私の祖母ドーラが南京から離れたということ(映画の場面)はなく、彼女は戦争の期間中とその後もずっと上海にいたのです。また、祖父による安全区への5万ドルの寄付はフィクションです。実際には同額が蒋介石大元帥によって安全区に供与されています。ローゼン博士と写真家の中国女性との恋愛も監督の創作です。他にも多数の演出が存在しています。)

映画「ジョン・ラーベ 南京のシンドラー」のメッセージとはなんでしょうか。これは、1937-1938年の南京における日中の史実を通して描かれる、キリスト教の友愛の精神にも通ずる、困った時に友や他人を助ける勇気と献身だと思います。このテーマは多くの人が自分のことばかり考える時代、今日現代にこそ大きな意味を持っています。ジョン・ラーベは若者にとって目指すべき人物像の一つです。他の人に対する慈愛や博愛の心は、人間にとって自然な感情であるべきです。タルムード(モーゼの律法)にはこうあります。「一人を救うものは世界を救う」。

私たちは平和と民族間相互理解のための研究所を10年以上前にハイデルベルグで立ち上げました。(www.john-rabe.de) 私たちの住まいの近くには、家族が出資して購入した建物があり、現在はそこを小さな博物館にしています。もともとはこの建物をハイデルベルグに学びに来た日中の留学生のための宿舎にする計画だったのですが、資金が足りず断念しました。今は建物の一部を国外からの留学生のために解放しています。

平和研究所の一つの活動として、「ジョン・ラーベ平和賞」の授与があり、最初の賞は日本人の俳優香川照之氏に贈りました。日本人として、映画「ジョン・ラーベ」で日本の皇族、朝香宮鳩彦を演じるのは大変に勇気ある行動だと思います。また、私たちは南京のジョン・ラーベのかつての住処を修繕した平和と国際相互理解のための研究所とも密接に協力しています。オーストリアの平和の使者とも密接な協力関係にあり、特に友でもあるアンドレアス・マイスリンガー氏には同様に「ジョン・ラーベ平和賞」を贈らせていただきました。

「なぜ中国人を助けるのか」と岡少佐に問われ、1938年にジョン・ラーベはこう答えています:
「私はここ中国に30年間以上住んでいます。
私の子や孫もここで生まれました。
仕事も順調で幸せな日々を過ごしています。
中国人の皆さんには、戦時中にも変わらずに、常に良くしてもらっています。
もし私があなたの国で30年住み、同じように良くしていただいたなら、例えば今の中国のような極めて危機的状況であっても、私はあなたの国のひとびとのもとを離れたりしないでしょう。(ジョン・ラーベの日記『南京の真実』)

妻のエリザベータと私は、映画「ジョン・ラーベ」の日本公開が過去を乗り越え新たな民族間相互理解への一助となるよう願っています。過去に向き合い、不正を受け止め再生しなければ、友として尊敬し合いながら和平を保つことはできません。最後に、広島市と南京市の姉妹都市提携が実現することを願いつつ、周恩来の言葉で締めくくりたいと思います。

最悪なのは無知ではなく
偽りを真理とすること
真理を解ろうとしないこと

(周恩来, 1970)

2014年4月20日イースターの日曜日、ハイデルベルグより
トーマス&エリザベータ・ラーベ
www.john-rabe.de






ドイツ語原文 : Original Text in German

John Rabe – Filmpremiere in Japan 2014

Gedanken zur Völkerverständigung von Thomas und Elisabeth Rabe

Die Geschichte Deutschlands ist mit der von China und Japan seit mehreren Hundert Jahren eng verknüpft. Eine Einmischung in diese Geschichte steht mir als Arzt und Universitäts-Professor für Gynäkologie und Geburtshilfe – also als Nichthistoriker – nicht zu. Wenn ich nicht als Enkel von John Rabe, sondern als Deutscher und als Privatperson nach einer Bewertung geschichtlicher Zusammenhänge anderer Länder gefragt werde, muss ich immer daran erinnern, welche langen Schatten die Ereignisse zwischen 1933 und 1945 auf unser Land und letztlich auf uns Deutsche geworfen haben.

Ich wurde 1951 geboren – im Nachkriegsdeutschland, der Krieg war gerade 6 Jahre vorbei – und habe die Schrecken des Krieges nur aus Erzählungen gehört. Unsere Familie lebte – als ich vier Jahre alt war – in Kaiserslautern im Westen Deutschlands, wo mein Vater als Assistenzarzt in der Frauenklinik arbeitete. In Kaiserslautern waren noch zahlreiche Häuser durch Bomben zerstört, die verbliebenen Bombentrichter erinnerten an den Krieg, vor dem man als Kind Angst hatte, er könnte sich wiederholen. Und tatsächlich, als ich 11 Jahre alt war, wäre ein solches Ereignis in Form der damaligen Kubakrise (1962) beinahe wieder eingetreten – der Konflikt zwischen den USA und Russland. Für mich war Krieg immer mit Zukunftsängsten verbunden – im Mittelpunkt der Tod, den auch Mitglieder meiner Familie als einfache Soldaten in Stalingrad erlitten haben.

Seit meiner Tätigkeit als Arzt an der Universitäts-Frauenklinik in Heidelberg habe ich mich immer sehr intensiv um den internationalen Wissenschaftsaustausch bemüht. Bei unseren zahlreichen in Heidelberg organisierten Weltkongressen über Kontrazeption habe ich auch zahlreiche Freunde aus Israel gewonnen und ihr Land besucht. Es hat mich sehr beeindruckt, wie positiv ich von meinen neu gewonnen Freunden aus Israel und ihren Familien empfangen wurde. Wir konnten über alles sprechen – nie hat mich jemand nach der deutschen Geschichte gefragt.

Erst nach der Veröffentlichung der Tagebücher meines Großvaters “John Rabe” – 1997 – durch einen früheren Freund und zwischenzeitlichen deutschen Botschafter in China, Herrn Dr. Erwin Wickert, habe ich mich mit dem Leben meines Großvaters in China und den Ereignissen in Nanking intensiver beschäftigt. Zum besseren Verständnis der damaligen Zusammenhänge in Nanking 1937/1938 und der Rolle meines Großvaters habe ich zusammen mit Sinologen, Japanologen, Zeitzeugen und unter der Mentorschaft von Herrn Dr. Erwin Wickert selbst ein über 400-seitiges Buch über “John Rabe und seine Zeit in China” verfasst. Da ich meinen Großvater nicht selber kannte (er ist ein Jahr vor meiner Geburt am 5. Januar 1950 verstorben), musste ich mir ein Bild aus den unterschiedlichen Berichten von Zeitzeugen und Historikern machen. Wichtig waren hierbei auch das Zusammentreffen und die Erzählungen der noch Überlebenden von den mehr als 650 Flüchtlingen, die im Wohnhaus (Einfamilienhaus) und Garten (1000 qm) meines Großvaters Schutz gesucht und gefunden haben. Diesen Einsatz für seine “Freunde, die man in der Not nicht im Stich lässt” bewundere ich bei meinem Großvater am meisten: 9 Personen übernachteten auf der Toilette, über 20 im Bad – der Rest bei Kälte und Frost auf Strohmatten im Garten – hiervon ca. 100 Kinder.

Das Modell von Shanghai, wo 1937 der französische Jesuitenpater Jaquinot beim japanischen Angriff auf die Stadt eine neutrale Zone zum Schutz der Zivilbevölkerung eingerichtet hatte, wurde auch in Nanking übernommen. Mein Großvater wurde zum Vorsitzenden des “Internationalen Komitees” zur Einrichtung und zum Schutz dieser Sicherheitszone bestimmt – in der auf einer Fläche von ca. 4 Quadratkilometern innerhalb der Stadtmauern von Nanking über 200.000 Zivilisten Schutz fanden. Das internationale Komitee wachte über deren Sicherheit, meldete Übergriffe und kümmerte sich um die Verpflegung.

Bei zahlreichen Gesprächen mit Historikern, Sinologen und Japanologen habe ich gelernt, wie wichtig es für uns Deutsche ist, wie wir mit der Vergangenheit umgehen. Die Generation des “Dritten Reichs” ist nahezu fast vollständig gestorben – die Vergangenheit ist geblieben. Deutschland hat nach dem Krieg versucht, das Unrecht, das unser Volk verursacht hat, zu begreifen und aufzuarbeiten – unsere Freunde aus Israel haben eine Entschuldigung der deutschen Nachkriegsgeneration angenommen. Beide Völker haben sich ausgesöhnt und können somit in Frieden zusammenleben. Auch mit unseren anderen Nachbarn in Frankreich, Polen und Russland wurde bei zahlreichen bilateralen Besuchen klar, dass man das Rad der Geschichte zwar nicht zurückdrehen kann, dass aber Deutschland das geschehene Unrecht unendlich leid tut.

Um die Vergangenheit aufzuarbeiten, benötigt man allerdings Hintergrundinformationen über das, was in der Vergangenheit geschehen ist. Auch wenn man durch Kenntnis der Vergangenheit diese nicht ungeschehen machen kann, erleichtert diese Kenntnis aber doch den Zugang zu den früheren “Feinden” und ist ein wichtiger Schritt, damit aus früheren Feinden in Zukunft Freunde werden können. Der Tod so vieler Menschen durch die Kriege auf vielen Schauplätzen der Weltgeschichte kann nicht unnötig gewesen sein – sie müssen der Grundstein für Konfliktlösungen, für Miteinandersprechen und Zuhören, für Hochachtung für den “Anderen” sein; ein Teil der Menschenwürde.

Als der Film “John Rabe” über meinen Großvater gedreht und international vorgeführt wurde, war meine Familie sehr in Sorge, dass hierdurch möglicherweise bestehende ältere Konflikte zwischen China und Japan wieder ins Gedächtnis gerufen werden könnten und dies den Weg zur Völkerverständigung verhindern würde. Bei den Filmpremieren in Peking, Nanking und Shanghai, an denen meine Frau und ich teilgenommen haben, haben wir immer wieder betont, dass man die Vergangenheit nicht damit ungeschehen macht, dass man sie nicht beachtet, sondern es besser sei, den Film und das Nachdenken über die Chinesisch-Japanische Geschichte als ersten Schritt für einen Neubeginn in den Beziehungen zwischen Japan und China zu nutzen. Als Privatperson wurden wir mehrfach gefragt, was wir uns wünschen würden, wenn wir einen Wunsch frei hätten. Als einen Beitrag zur Völkerverständigung wünschen wir uns eine Städtepartnerschaft zwischen Nanking und Hiroshima. Hierzu haben wir die Bürgermeister von Hiroshima und Nanking kontaktiert. Von den zuständigen Stellen wurde uns mitgeteilt, dass dies – wenn überhaupt – ein Prozess des langsamen Zusammenwachsens – auf vielen Ebenen sein müsste; es war keine Absage – die Hoffnung besteht weiter.

Wenn jetzt der Film “John Rabe” in Japan gezeigt wird, bitte ich zu beachten, dass zwar der historische Hintergrund und die teilweise exemplarisch gezeigten Gräueltaten den in den Büchern meines Großvaters dokumentierten Tatsachen entsprechen, dass aber auch der Regisseur sich die künstlerische Freiheit herausgenommen hat, bestimmte Ereignisse im Film aus dramaturgischen Gründen zu verändern (zum Beispiel ist meine Großmutter Dora nie aus Nanking abgereist, sie hat sich während des Krieges zuletzt in Shanghai aufgehalten; eine Stiftung von 50.000 $ seitens meines Großvaters für die internationale Zone gab es auch nicht, vielmehr entsprach diese Summe dem Geldbetrag, den er von Generalissimo Chiang Kai-shek für die Verpflegung der internationalen Zone bekommen hat. Die Liebe zwischen Dr. Rosen und der chinesischen Fotografin entsprang auch der Phantasie des Regisseurs – wie noch vieles andere.)

Was ist nun der Sinn des Films “John Rabe”? Er soll neben dem zentralen Punkt, sich mit der chinesisch-japanischen Geschichte von 1937/1938 in Nanking auseinanderzusetzen, zeigen, dass auch in Zeiten der Not Zivilcourage und Einsatz für Freunde und Fremde im christlichen Sinn für die Mitmenschen wichtig ist. Diese Vorbildfunktion ist in der heutigen Zeit – wo oft der Einzelne hauptsächlich an sich selbst denkt – umso wichtiger. John Rabe sollte ein Vorbild für die Jugend sein. Menschlichkeit und Einsatz für die Mitmenschen sollte etwas Selbstverständliches werden. Im Talmud steht: „Wer ein Leben rettet, rettet die ganze Welt.“

Im Rahmen unserer Friedensaktivitäten haben wir vor über 10 Jahren in Heidelberg ein Forschungsinstitut zur Friedens- und Völkerverständigung aufgebaut (www.john-rabe.de). Neben unserem Wohnhaus haben wir ein weiteres Gebäude aus Mitteln unserer Familie gekauft, das als kleines Museum dienen sollte und ursprünglich als gemeinsame Unterkunft für chinesische und japanische Studenten in Heidelberg geplant war. Die Grundidee dieses Instituts und Gästehauses konnte jedoch aus finanziellen Gründen in der geplanten Form nicht umgesetzt werden, da wir von keiner Seite eine finanzielle Unterstützung erhalten haben. Jetzt bietet das Haus Platz für Studenten aus verschiedenen Ländern der Welt, die in Heidelberg studieren.

Als eine der zahlreichen Aktionen unseres Friedensinstituts ist die Verleihung des “John Rabe Award” (“John Rabe Friedenspreis”) zu sehen, der zum ersten Mal dem japanischen Schauspieler KAGAWA Teruyuki verliehen wurde, der als Japaner die Zivilcourage hatte, im Film “John Rabe” den japanischen Prinzen ASAKA Yasuhiko zu spielen. Weiterhin besteht eine enge Kooperation mit dem früheren Wohnhaus von John Rabe in Nanking, das nach seiner Renovierung ebenfalls als Institut zur Friedensforschung und Völkerverständigung eröffnet wurde. Eine enge Zusammenarbeit besteht auch mit den Österreichischen Friedensdienern und hier insbesondere mit meinem Freund Andreas Maislinger, der ebenfalls den “John Rabe Friedenspreis” verliehen bekommen hat.

Auf die Frage des japanischen Majors Oka an John Rabe, warum er den Chinesen geholfen habe, antwortete er im Januar 1938:
– “Ich bin hier in China seit 30 Jahren ansässig,
– hier sind meine Kinder und Enkelkinder geboren,
– hier bin ich friedlich und erfolgreich meinen Geschäften nachgegangen,
– ich bin immer – auch während des großen Krieges – von den Chinesen gut behandelt worden!
– Wenn ich – Herr Major Oka – mich 30 Jahre in ihrem Land aufgehalten hätte und von ihren Landsleuten so gut behandelt worden wäre wie von den Chinesen – ich wäre – Sie dürfen versichert sein – in Zeiten der Not (wie China solche heute durchmacht) – auch Ihren Landsleuten nicht von der Seite gewichen!” (Zitat aus den John Rabe- Tagebüchern: “Feindliche Flieger über Nanking”)

Meine Frau Elisabeta und ich würden uns freuen, wenn durch den Spielfilm “John Rabe” in Japan ein Beitrag zur Bewältigung der Vergangenheit und ein neuer Schritt zur Völkerverständigung möglich wäre, denn ohne Bewältigung der Vergangenheit, Anerkennung für geschehenes Unrecht und Aussöhnung ist es nicht möglich, miteinander als Freunde in Frieden und Hochachtung zu leben. Vor diesem Hintergrund möchten wir mit einem Zitat von Tschou En-Lai (1970) schließen und hoffen, dass sich unser Wunsch zur Völkerverständigung durch eine Städtepartnerschaft von Nanking und Hiroshima in naher Zukunft erfüllen wird.

Das Ärgste ist nicht die
Unwissenheit der Leute,
sondern,
dass sie Falsches für
richtig halten
und das Richtige nicht
wissen wollen.

Tschou En-Lai 1970

(Zhou Enlai/“周恩来”)

Heidelberg, Ostersonntag, den 20. April 2014

Thomas und Elisabeta Rabe
www.john-rabe.de






英語訳 : English Translation

John Rabe – movie premiere in Japan in 2014

Thoughts on International Understanding from Thomas and Elisabeta Rabe

The history of Germany is closely linked with that of China and Japan for several hundred years. As a physician and university professor of gynecology and obstetrics – therefore as a non-historian – I am not entitled to intervene such history. If I am asked not as the grandson of John Rabe, but as a German and as a private person for an evaluation of historical connections of other countries, I always have to recall the events between 1933 and 1945, that casted long shadows on our country and ultimately to us Germans.

I was born in 1951 – in post-war Germany, just 6 years after the war – and I have heard the horrors of war only through narratives. When I was four years old, our family lived in Kaiserslautern in western Germany, where my father worked as an assistant physician in the Women’s Clinic. Many houses were destroyed by bombs in Kaiserslautern, and the remaining bomb craters reminded of the war. Even as a child, I feared such history repeating itself. In fact, when I was 11 years old, such an event almost would have occurred as the Cuban Missile Crisis (1962) – the conflict between the U.S. and Russia. For me, war was always connected with fears of future – in the center of death, which also members of my family suffered as mere soldiers in Stalingrad.

Through my work as a physician at the University Women’s Hospital in Heidelberg, I have always strove for international academic exchange. By organizing numerous international conferences on contraception in Heidelberg, I have gained many friends from Israel and visited their country. It really impressed me how positive I was received by my newfound friends from Israel and their families. We could talk about anything – never has someone asked me about the German history.

Only after the publication of the diaries of my grandfather “John Rabe” – 1997 – by a former friend and the then German Ambassador to China, Dr. Erwin Wickert, I have occupied myself intensively with the life of my grandfather in China and the events in Nanking. For a better understanding of that relationship in Nanking 1937/1938 and the role of my grandfather, under the mentorship of Dr. Erwin Wickert, I have worked with sinologists, japanologists, and witnesses, and authored an over-400-page book about “John Rabe and his time in China”. Since I do not personally know my grandfather (he passed away a year before I was born, on January 5th, 1950), I had to picture him through the various accounts of eyewitnesses and historians. Critical was the encounter and the narrations of the survivors of the more than 650 refugees that have sought protection in the house (single-family) and garden (1000 square meters) of my grandfather. This commitment for his “friends you cannot let down in times of trouble” is what I admire mostly about my grandfather: 9 people took shelter in the toilet, about 20 in the bathroom – the rest on cold and freezing straw mats in the garden – including about 100 children.

The model of Shanghai, where in 1937 the French Jesuit priest Jaquinot had established a neutral zone to protect the civilian population during the Japanese attack on the city, has been adopted in Nanking. My grandfather was appointed Chairman of the “International Committee” for establishing and protecting this security zone – in an area of about 4 square kilometers within the city walls of Nanking over 200,000 civilians found shelter. The International Committee kept watch over their safety, reported assaults and took care of the supply of food.

Through numerous discussions with historians, sinologists and japanologists, I learned how important it is for us Germans, to deal with the past. The generation of the “Third Reich” died almost completely – but the past remained. After the war, Germany tried to understand and to regenerate from the injustice that our people caused – and our friends in Israel have accepted an apology from the German post-war generation. Citizens of both nations have reconciled themselves and thus can live together in peace. While the wheel of history cannot be unwound, Germany made its apologies for injustices clear through numerous bilateral visits with our other neighbors in France, Poland and Russia.

In order to come to terms with the past, one must first learn what has happened. Even though the past cannot be undone through its knowledge, the knowledge facilitates the access to former “enemies”, and is an important step to turn former enemies into future friends. The death of so many people throughout the wars on numerous scenes of world history cannot be unnecessary – they must be the foundation for the resolution of conflicts, for speaking and listening to one another, for the respect for the “others” – a part of human dignity.

When the movie about my grandfather “John Rabe” was filmed and screened worldwide, my family was very worried that this may bring back the existing conflicts between China and Japan and possibly prevent the path to understanding. During the film premieres in Beijing, Nanking and Shanghai, where my wife and I attended, we have repeatedly emphasized that one does not make the past undone by not considering; but rather, it is better to consider that the film as well as the reflections on the Chinese-Japanese history as the first step for a new beginning in the relations between Japan and China. As a private person, we were asked several times what we would prefer if we could have one wish. As a contribution to international understanding we desire a partnership between the cities of Nanking and Hiroshima. To this end, we have contacted the mayors of Hiroshima and Nanking. The respective authorities informed us, that this – if at all – would have to be a slow process of growing together on many levels; it was not a rejection – the hope persists.

Now, when the film “John Rabe” is shown in Japan, I ask to note that, indeed, the historical background and the atrocities correspond to the documented facts in the books of my grandfather; however, the director has also taken advantage of the artistic freedom to change certain events in the film for dramatic reasons (for example, my grandmother Dora never departed from Nanking, she has stayed in Shanghai until the end of war; an endowment of $50,000 by my grandfather for the international zone did not happen, but rather, this sum correspond to the amount of money that the international zone received from Generalissimo Chiang Kai-shek; the love between Dr. Rosen and the Chinese photographer also sprang from the imagination of the director – and many more.)

What is the meaning of the film “John Rabe”? It must be the about the main theme, argued and shown around the Sino-Japanese history during 1937/1938 in Nanking, that courage and dedication to friends and strangers in the Christian sense of the fellowship is important even in times of need. This theme is even more important at the present time – where often the individual mainly thinks of himself. John Rabe should be a role model for the youth. Humanity and commitment to their fellow human beings should become something natural. As stated in Talmud : ” Whoever saves a single life, saves the whole world. ”

As part of our activities we have built a peace research institute for peace and international understanding (www.john-rabe.de) over 10 years ago in Heidelberg. Beside our residence, we have bought another building with funds from our family, which was to serve as a small museum and was originally planned as a common lodging for Chinese and Japanese students in Heidelberg. The basic idea of this institute and the guest house, however, could not be implemented in the planned form due to financial reasons, because we have not received any financial support. Now the house offers space for students from different countries of the world who study in Heidelberg.

As one of the numerous activities of our Peace Institute, we award the “John Rabe Award” (“John Rabe Peace Prize”), which was first awarded to the Japanese actor KAGAWA Teruyuki, who as Japanese had the courage to play the role of Prince Yasuhiko Asaka, in the movie “John Rabe”. Furthermore, there is a close cooperation with the former home of John Rabe in Nanking, which was also renovated and opened as an institute for Peace Research and International Relations. A close collaboration also exists with the Austrian peace servants, and especially with my friend Andreas Maislinger who has likewise been awarded the “John Rabe Peace Prize”.

On being asked why he helped the Chinese by Major Oka, John Rabe answered in 1938:
– ” I have been living here in China for over 30 years,
– My kids and grandchildren were born here,
– and I am happy and successful here.
– I have always been treated well by the Chinese people, even during the war.
– If I had spent 30 years in your country and were treated just as well by your people, you can be assured that, in a time of emergency, such as the situation China faces now, I would not leave the side of the your people.” (quote from The John Rabe Diaries : “Hostile aircrafts over Nanking”)

My wife Elisabeta and I would appreciate if a contribution to overcoming the past and to a new step to international understanding could be achieved by the feature film “John Rabe” in Japan, for without dealing with the past, without the recognition of injustices and reconciliation, it is not possible to live together as friends in peace and respect. To this end, we would like to conclude these statements with a quote from Chou En- Lai (1970) and hope that our desire for understanding through a partnering of Nanking and Hiroshima will realize in the near future.

The worst is not the
Ignorance of the people ,
but,
making the wrong true
and to not want the truth.

Zhou En-Lai in 1970
( Zhou Enlai / “周恩来” )

Heidelberg , Easter Sunday, April 20, 2014
Thomas and Elisabeta Rabe
www.john-rabe.de






中国語訳 : Chinese Translation

「约翰・拉贝 南京的辛德勒」

2014年日本首映与国际社会的相互理解

托马斯・拉贝
伊莉莎贝塔・拉贝

德国历史与中国、日本在近数百年间有着密切的关系。我是大学教授、产科医生,而不是历史学者,因此没有资格来过多地谈论这段历史,但如若作为一名德国市民而不是作为约翰・拉贝的孙子,当被问及国家与国家之间的历史关系时,我觉得不能忘记的是我的国家和德国人民被蒙上阴影的1933年到1945年间所发生的事情。

我是1951年,战争结束6年之后在德国出生的,没有亲身经历过战争,只是听说过战争的残酷。我4岁时,父亲作为助理医生到德国西部的凯撒斯劳滕妇产科医院工作,一家人在一起生活。那座城市战争时曾遭受过空袭,很多房屋被破坏,每当看到战争遗留的痕迹,还是孩提时代的我就总会担心是否还会发生这样的悲剧,孩提时对战争的恐惧感至今依然记忆犹新。在我11岁的时候,美苏关系因古巴问题一度陷入一触即发、剑拔弩张的紧张状态,对于我来说,战争总是与对未来的恐惧联系在一起的,主要是对死亡的恐惧,如我的家人当年作为一名士兵在斯大林格勒所忍受的那样。

从我在海德堡大学妇产科医院做医生开始,就致力于国际科学的交流活动,在海德堡组织的许多次国际避孕大会上,结识了许多以色列朋友,并访问了他们的国家。我非常感谢新朋友和他们家人对我的欢迎,我们探讨很多话题,但却没有人问我德国的历史。

通过一个以前的朋友和当时在中国担任大使的埃尔温・维克特博士,我祖父约翰・拉贝的日记在1997年出版,从那时起,我开始密切关注我祖父在中国的生活和那时在南京所发生的事情。为了更详细地了解1937~1938年南京的相关情况和我祖父的角色,在埃尔温・维克特博士的指导之下,我与研究中国历史和日本历史的学者以及当时的见证人一起撰写了400多页的著作《约翰・拉贝与他在中国的岁月》。祖父是在我出生的前一年,1950年1月5日去世的。对于祖父我没有印象,通过见证人和历史学者的无数报道,我自己在心中形成了对祖父的形象。其中最重要的是祖父曾在自己家里(1个家庭的独栋房子)和花园(1000平米),保护的650多个难民幸存者的会面和叙述。我最为敬重祖父的是他始终持有“不能让朋友陷入困境”的坚强信念。那些难民有9人在厕所、20人在浴室、更多的人在花园中冰冷的稻草垫上过夜,他们当中有100多个孩子。

1937年,法国天主教会的饶家驹神父在上海设立了安全区,以保护民间百姓免遭日本军队的攻击。以此为样板南京也设立了中立区,我的祖父被任命为安全区国际委员会的委员长,在南京城内4平方公里的区域内,收留了20万市民,由国际委员会保护他们的安全、提供空袭警报和确保食物的供应。

在与许多历史学家、汉学家和日本学学者的讨论中,我认识到作为德国人必须正视历史,“第三帝国”的时代虽然已经结束,但那时所发生的却没有完全成为过去。战后,德国人民努力寻找造成悲剧的起因并进行反思。我们的以色列友人接受了战后一代德国人的道歉,两国人民为了今后的和平而和解了。德国在与法国、波兰、俄罗斯等邻国的许多双边访问中都清楚地表明了,虽然历史是无法回头的,但是德国对于造成的过失深感歉意。

要想正视过去,必须知道那时究竟发生了什么?当然,了解过去不是要把旧帐一笔勾销。对过往的了解,有助于我们对以前所谓的“敌人”的认识,这是把过去的“敌人”变成未来的“朋友”的重要一步。世界历史上发生的战争造成了那么多人死亡,他们的生命不会白白地付出,这将成为化解冲突、相互沟通和倾听以及尊重“他人”的基石,这是人的尊严的一部分。

当得知关于祖父的电影「约翰・拉贝」拍摄并在世界公开放映的时候,我的家人非常担心这是否会成为中日旧有冲突的新“导火索”?是否会妨碍两国之间的相互理解?电影在中国放映期间,我和妻子到北京、南京、上海参加了放映活动,我们反复强调“不是否认历史,不是忽略过去,而是希望通过这部电影和反思,为日中关系带来新的契机”。我经常被人问及,作为个人,想要实现一个愿望的话,那么你的愿望是什么?我的回答是,为了实现民族间相互理解而做出贡献,我希望南京市和广岛市能结为友好城市,并向两个市的市长表达了我们的这一愿望。双方相关人士都认为,即便是有可能,也需要时间,相互间有必要在许多层面上逐步靠近。他们既然没有否定,就表示还有希望。

现在,当日本公开放映「约翰・拉贝」时,我希望注意,虽然电影描写的历史背景以及一些残酷的场面与祖父在日记上记载的事实相符,不过,导演的艺术自由使他从电影戏剧性角度出发对一些情节做了修改(例如,我的祖母多拉没有从南京离开,战争期间后来一直在上海;此外,祖父没有为安全区捐款5万美金,实际上,他从蒋介石大元帅那里得到了相同金额的款项,用于国际安全区的膳食。此外,罗森博士与中国的女摄影师的恋爱故事也是导演的虚构。其他还有很多)。

电影「约翰・拉贝」希望告诉人们什么呢?除了影片的核心内容,描述1937年至1938年在南京发生的那段日中之间的历史事实之外,也展现了主人公以基督教的友爱精神,为困境中的朋友和陌生人提供无私帮助的勇气和献身精神的重要性。这种榜样的作用在当今这个大部分人只考虑自己的时代,更具有深远的意义。约翰・拉贝应成为年轻人的榜样。人性和助人应该是人类的自然情感,正如塔木德(摩西律法)所说“拯救一个人就是拯救一个世界”。

在我们的和平活动范围内,十几年前,我们在海德堡建立了和平及民族和解研究所(www.john-rabe.de)。我们家附近,由家庭出资购买了另外一栋建筑,现在成为一个小博物馆,原计划用作到海德堡的中日留学生共同居住的宿舍。这个研究所和宿舍的基本构想因资金不足未能实施,因为我们没有任何方面的资金支持。这所建筑物现在为来自世界各国的留学生们开放。

和平研究所的活动之一是颁发“约翰・拉贝和平奖”,最初的奖颁给了日本演员香川照之先生,作为日本人他在「约翰・拉贝」电影中扮演了日本皇太子香宫鸠彦,这需要极大的勇气。另外,与约翰・拉贝在南京故居也有紧密合作,修缮后,拉贝故居也作为和平研究和民族和解研究所对外开放。我们与奥地利的和平使者也有密切的合作关系,特别是友人安德里亚斯・麦斯令尔同样获得了我们授予的“约翰・拉贝和平奖”。

1938年,冈少佐曾问过约翰・拉贝“为什么要帮助中国人”?他是这样回答的“我在中国居住了30多年。我的子孙也在这里出生。我工作顺利,过着幸福的生活。中国人即使在战争年代,也一直对我非常友好。如果我在你的国家居住30年,同样得到这么多的友好对待,如果遇到同中国现在一样的极其危险的情况时,我也不会离开你的国家的人们”。 (选自约翰・拉贝日记《敌机在南京上空》)

我和妻子伊莉莎贝塔有同样的愿望,就是希望电影「约翰・拉贝」在日本公演,能够成为超越过去、促进民族和解的新的力量,如果不正视过去、接受教训和和解,那么就不可能作为朋友那样相互尊敬、在和平和相互尊重下生活。最后,我想用周恩来的话来结尾,并衷心祝愿广岛市和南京市未来能够缔结为友好城市,

最可怕的并非是人的无知 而是把谬误当作真理和不愿了解何为真理
(周恩来,1970年)

2014年4月20日
托马斯与伊莉莎贝塔・拉贝于海德堡
www.john-rabe.de